“さには”という言葉をご存知でしょうか。審神者と書き、神を審(つまび)らかに
する者の意で、いわゆる霊媒に下りた神を審判する役割です。神と云っても、
本当の神は人には下りません。生長の家の故谷口雅晴氏も「神は霊媒には
懸からぬ」と云ってるように、神は懸かるものではないというのが審神者の第1
原則です。ですから、神が人に懸かって体を動かしたり(霊動)、喋らせたり(霊
言)、書かせたり(自動書記)、その他の物理現象を現すことはありません。
大体、神霊と人間とでは波動に天と地ほどの開きがあり、その人が余程浄化、
向上しなければ容易に同調するものではない。したとしても、直感か、純粋に
エネルギーとして感応するもので、肉体を操って動かしたり、喋らせたりは
しません。そういうことをするのは、それだけ肉体次元に近い、波動の粗い霊
(人霊、動物霊など)であって、“神霊”ではありません。
只、神の命を受けた眷属霊が、その神の名を語ってくることはあります。が、
それも余程の場合であって、通常はありません。
ですから、有名な神名を語ってきた時はまず嘘であると思ってかまいません。
審神者の第2原則“名乗る神は本物ではない”です。
大体、神は人の小間使いではない。呼べば必ず来て、願いを聞いてくれるなど
と云うのは人間側の勝手な思い込みです。聖書にも、彼らは無意味に私の名を
唱えている、とあるように、自分勝手な願いは神には通じません。むしろ、
そういう人の粗い念波と同調する低級霊を呼び込みますので、一時は願いがか
なっても、その反動が必ずあります。しかも、その反動の方が大きい場合が多
いのです。ですから、神に願いをする時は、それが社会道徳にかなうか否か、
それがかなえられることで損をする人がいないか、更に最も大切なことです
が、自分がその願いをするだけの器かどうか、これらのことを充分吟味する必
要があります。以上のことがクリアーできれば少なくとも低級霊とは、通じませ
ん。聞き届けられるか否かは神の判断です。自分からみて公正な願いであ
っても、神がよしとしなければかないません。そういう場合はかなわない方が
本人にとってよいのです。人は今のことしか分りませんが、神は未来迄見てい
ます。ですから、正しき願いをした後は、結果を気にせず、神を信じて待ってい
ればよい。もしなかったら必ず礼を云いましょう。かなわなかったら、それはそ
れでよし。それが惟神(かんながら)というものです。
審神者とは人に対してのみするものではない。その前に自らをしなければなり
ません。自らを省みてやましい所がない場合のみ、人を審神者することが許さ
れます。自省心のない者には審神者はできぬと云うことです。特に宗教に関
わっている人にこそ、そういう意識が必要でしょう。